西日本新聞社RECRUITMENT2019 西日本新聞社RECRUITMENT2019

地域の一員となって、
出来事や課題、
人の記事を届ける

筑豊総局
(取材記者:総局)
長松院ゆりか

2020年入社

※所属部署は取材当時のものです。

01現在どんな仕事をしていますか?

 福岡県飯塚市など5市10町村におよぶ「筑豊地区」をカバーする筑豊総局(飯塚市)で、記者をしています。筑豊地区は、旧産炭地。かつては出炭量が全国で最大の筑豊炭田があり、たくさんの労働者が集まった街です。しかし、閉山後は衰退し、経済的な成長を模索しています。その土地に住み、地元の人たちと時間を共に過ごしながら、地域で起こる出来事や課題、活躍する人を記事にして届けます。

 私は、この8月から「遊軍記者」になりました。遊軍というのは記者クラブに在籍せず、自分の興味のあるテーマや、社会的な関心が高い問題について、官庁の発表だけに頼らず、独自に取材する担当です。私は福祉や医療、教育の分野を主に取材しています。

02一番印象に残っている仕事、経験は?

 福岡県篠栗町で2020年、5歳だった男児が餓死した事件の取材です。私は当時入社1年目で、福岡県警の担当をしていました。保護責任者遺棄致死の容疑で、母親と知人女性が逮捕される前後の約4ヶ月間、ほぼ毎日篠栗町に通い、男児や母親などを知る人を捜しました。最初は先輩が掴んだ「男の子が亡くなった」という情報だけでした。しかし、取材を続け、関係者の話を繋げていくと、ご飯を何日にもわたって与えられていなかったこと、知人女性が嘘を言って母親から金を騙し取っていたことなど、段々全容が分かってきました。「なんでこんなことに」「誰が悪いの」「私が言ってあげればよかったのかな」―。取材するなかで、たくさんの言葉を地域の方々に投げかけられました。雪の降る中一日中歩き回り、関係者の涙を見ることも多い取材でしたが、その疑問に応える記事を作りたいと思うようになりました。たくさんの学びがあり、これからも心に残る取材だと思います。

03入社してからの最大の試練や失敗は?
それをどう乗り越えましたか?

 入社してから2年が経ちましたが、試練や失敗と言えるほどの経験はまだありません。しかし、悩むことや考え込むことはたくさんあります。筑豊地区では、福岡市などの都市部に比べて自治体や企業からの取材依頼がほとんどありません。自ら多くの場所に足を運び、知り合いを増やし、記事になるネタを得ることが必要になります。私は1年目、福岡県警担当で、記事を書くことよりも、発生した事件や事故の情報収集に費やす時間が長かったです。毎日のように記事を書くようになったのは2年目に筑豊総局に来てからでした。最初はどのように知り合いを増やすのか、何がニュースなのか悩んだ時期もありました。「悩むより行動だ」と思った私は、もしかしたら記事にならないかもしれない話や雑談でも、現場に行き、時間をかけて話を聞くようにしました。時間がたつにつれて知り合いが増えて、私の社用携帯には頻繁に取材の依頼や記事の感想、食事の誘いが届くようになりました。今も悩むことはありますが、一度知り合った人が別の人を紹介してくれるような、地域の中に繋がりが生まれ、なんとか頑張っています。

ある日のスケジュール

8:00
起床。アプリでニュースを見ながら、身支度をする。
10:00
取材が始まる。会社には出勤せず、自宅からそのまま取材先に向かうことが多い。移動手段は車。
12:00
午前中に取材したことを原稿に書く。
13:00
「ご飯においで」と取材先から連絡が来る。ランチをしながら雑談。この時聞いた話が記事になることもある。
16:00
会社に行き、電話で取材をしたり、その日書き切れなかった原稿を書く。
18:00
翌日の朝刊に掲載される記事をもう一度チェックしたり、次の日の取材の下調べをする。
21:00
帰宅。友人と電話をしたり、その時はまっている映画を見たりして就寝。

休日の過ごし方

 私は小学生の頃からK-POPが大好きで、毎日音楽を聞いたり、アイドルに関する動画を見たりしています。仕事で落ち込んだときやなんとなく不安な時も、「アイドルも頑張っているから私も頑張ろう」と前向きな気持ちになれます。写真はアイドルの動画を大画面で見るために買ったプロジェクターで、至福の時間を過ごしている場面です。こうした「オタ活」は私の原動力です。

西日本新聞社って
こんなところ

 西日本新聞社には自由な雰囲気があります。私の周りには「興味があることを自由に取材してみて」「思う存分やってみてください」と言ってくださる先輩や上司が多いです。

 記者が取材して書いた原稿をチェックして添削する「デスク」と呼ばれる人がいます。筑豊総局のあるデスクは「とりあえず取材してみたらどう?」とよく言ってくれます。私が筑豊総局に着任してすぐのころ、第二次世界大戦中に満蒙開拓団として、中国に渡り、戦後日本に永住帰国した中国残留邦人の2世に出会いました。さらに取材を進めると、生活状況の改善を求めて国会に請願書を提出することが分かりました。当時、私は記者2年目。取材したいという気持ちは大きかったのですが、知識も足りず、当事者にとって生活に関わる重要な請願について記事を書けるか不安でした。デスクに打ち明けると、「それでも、取材してみたらどう?一緒にやってみましょう」とアドバイスをもらいました。取材をするなかで、これまで興味が及ばなかった分野や知識が必要な問題、もしかしたら記事にはできないかもしれない話にも、「とりあえずやってみなさい」と前向きな言葉をかけてくださる雰囲気が私は好きです。

「 現場に行き、時間をかけて話を聞くことで地域の中に繋がりが生まれた 」

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