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軍艦島(端島)
ドルフィン桟橋と夕顔丸【軍艦島】001
端島のドルフィン桟橋と三菱重工業の連絡船「夕顔丸」=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町ドルフィン桟橋と夕顔丸【軍艦島】002
端島のドルフィン桟橋と三菱重工業の連絡船「夕顔丸」=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和20年代の端島炭鉱【軍艦島】
軍艦島とよばれた端島炭鉱=昭和20年代昭和20年代の軍艦島
端島全景(軍艦島)=1954(昭和29)年8月昭和20年代の高層アパート【軍艦島】
三菱端島炭鉱の高層アパート=1947(昭和22)年5月21日、長崎県高島町昭和30年代のアパート群【軍艦島】001
三菱端島炭鉱の炭鉱労働者が住むアパート群=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代のアパート群【軍艦島】002
三菱端島炭鉱の炭鉱労働者が住むアパート群=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代のアパート群【軍艦島】003
三菱端島炭鉱の炭鉱労働者が住むアパート群=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代のアパート群【軍艦島】004
三菱端島炭鉱の炭鉱労働者が住むアパート群=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代のアパート群【軍艦島】005
三菱端島炭鉱の炭鉱労働者が住むアパート群=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代のアパート群【軍艦島】006
三菱端島炭鉱の炭鉱労働者が住むアパート群=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代のアパート群【軍艦島】007
三菱端島炭鉱の炭鉱労働者が住むアパート群=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代の端島炭鉱【軍艦島】001
海底880メートルに通ずる第二竪坑坑道=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代の端島炭鉱【軍艦島】002
三菱端島炭鉱(やぐら)=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代の端島炭鉱【軍艦島】003
三菱端島炭鉱(端島の外周)=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代の端島炭鉱【軍艦島】004
三菱端島炭鉱=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代の端島炭鉱【軍艦島】005
三菱端島炭鉱(煙突)=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代の端島炭鉱【軍艦島】006
三菱端島炭鉱=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町(本社機から)昭和30年代の端島炭鉱【軍艦島】007
三菱端島炭鉱(やぐらと神社)=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代の端島炭鉱【軍艦島】008
端島(軍艦島)。小中学校か=1957(昭和32)年11月15日(本社機から)昭和30年代の端島炭鉱【軍艦島】009
三菱端島炭鉱=1963(昭和38)年9月25日(本社機から)昭和30年代・広場で開かれる市場【軍艦島】
端島の広場で開かれる市場=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代・端島の子どもたち【軍艦島】001
端島の子供たち=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町昭和30年代・端島の子どもたち【軍艦島】002
端島の子供たち=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町東洋一を誇る竪坑やぐらと石炭積み込み【軍艦島】
東洋一を誇る竪坑やぐらと石炭積み込み=1950(昭和25)年5月、長崎県高島町端島端島(軍艦島)の取材をする韓国KBSスタッフ
端島(軍艦島)の取材をする韓国KBSスタッフ=1989(平成元)年6月28日、長崎県軍艦島の金比羅神社
高層建築の炭鉱には珍しい金比羅神社が=1950(昭和25)年7月、長崎県高島町端島閉山する端島炭鉱【軍艦島】
「軍艦島」端島炭鉱の閉山式=1974(昭和49)年1月15日閉山後の端島炭鉱(平成11年)【軍艦島】001
端島(軍艦島)のアパート=1999(平成11)年7月17日、長崎県閉山後の端島炭鉱(平成11年)【軍艦島】002
端島(軍艦島)のアパート=1999(平成11)年7月17日、長崎県閉山後の端島炭鉱(平成11年)【軍艦島】003
端島(軍艦島)のアパート=1999(平成11)年7月17日、長崎県閉山後の端島炭鉱(平成11年)【軍艦島】004
端島(軍艦島)のアパート=1999(平成11)年7月17日、長崎県閉山後の端島炭鉱(平成12年)【軍艦島】
軍艦島=2000(平成12)年12月9日、長崎県高島町(本社ヘリから)閉山後の端島炭鉱(平成17年)【軍艦島】001
1916年に建設された日本で一番古いとされる鉄筋コンクリートの建物(右)。社宅として使われていた閉山後の端島炭鉱(平成17年)【軍艦島】002
鉱員社宅跡。材木やコンクリート片が散らばる建物の間には雑草や木が茂っていた=2005(平成17)年8月頃閉山後の端島炭鉱(平成17年)【軍艦島】003
積み出し前の石炭が置かれていた貯炭場跡=2005(平成17)年8月頃閉山後の端島炭鉱(平成18年)【軍艦島】
かつて炭鉱労働者が住んでいたアパートが立ち並ぶ端島(通称・軍艦島)=2006(平成18)年10月25日閉山後の端島炭鉱(平成20年頃)【軍艦島】
「観光資源」としてよみがえる長崎市沖合の端島(通称・軍艦島)閉山後の端島炭鉱(平成21年)【軍艦島】
整備された「ドルフィン桟橋」(手前)から端島(通称・軍艦島)に上陸する一般観光客閉山後の端島炭鉱(平成25年)【軍艦島】001
風化が進む端島。コンクリートの建物は崩れ、がれきが地面を覆っていた=2013(平成25)年頃閉山後の端島炭鉱(平成25年)【軍艦島】002
人が去った端島には、静かな時間だけが流れていた=2013(平成25)年12月4日閉山後の端島炭鉱(平成25年)【軍艦島】003
世界文化遺産推薦が決まった「明治日本の産業革命 遺産 九州・山口と関連地域」の構成施設の端島(通称・軍艦島)閉山後の端島炭鉱(平成4年)【軍艦島】001
荒れ果てた軍艦島(アパート)=1992(平成4)年6月18日、長崎県高島町閉山後の端島炭鉱(平成4年)【軍艦島】002
荒れ果てた軍艦島=1992(平成4)年6月18日、長崎県高島町閉山後の端島炭鉱(平成4年)【軍艦島】003
荒れ果てた軍艦島(アパート)=1992(平成4)年6月18日、長崎県高島町閉山後の端島炭鉱(昭和61年)【軍艦島】001
島内の風景(出炭速報)=1986(昭和61)年10月26日、長崎県西彼杵郡高島町閉山後の端島炭鉱(昭和61年)【軍艦島】002
島内の風景(学校か)=1986(昭和61)年10月26日、長崎県西彼杵郡高島町閉山後の端島炭鉱(昭和61年)【軍艦島】003
島内の風景(アパート)=1986(昭和61)年10月26日、長崎県西彼杵郡高島町閉山後の端島炭鉱(昭和61年)【軍艦島】004
島内の風景(賃金支払窓口)=1986(昭和61)年10月26日、長崎県西彼杵郡高島町閉山後の端島炭鉱(昭和61年)【軍艦島】005
島内の風景(クレーン)=1986(昭和61)年10月26日、長崎県西彼杵郡高島町閉山後の端島炭鉱(昭和61年)【軍艦島】006
島内の風景=1986(昭和61)年10月26日、長崎県西彼杵郡高島町閉山後の端島炭鉱(昭和61年)【軍艦島】007
島内の風景(アパート)=1986(昭和61)年10月26日、長崎県西彼杵郡高島町閉山後の端島炭鉱(昭和61年)【軍艦島】008
島内の風景(アパート)=1986(昭和61)年10月26日、長崎県西彼杵郡高島町閉山後の端島炭鉱(昭和61年)【軍艦島】009
島内の風景(アパート)=1986(昭和61)年10月26日、長崎県西彼杵郡高島町